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こんな道もある! セラピストの仕事「 失語症の人が生きやすくなる環境を作りたい」

公開日:2023.10.26

こんな道もある! セラピストの仕事「 失語症の人が生きやすくなる環境を作りたい」

文:北原 南海

セラピストの仕事の一般的なイメージは、医療機関に勤め、ステップアップしていく形が多い。その一方で生活期のリハビリや、作業療法士は発達障害ほか精神障害の領域など、活躍の場が広がりつつある。そこで、「こんな道もある」をテーマに特徴的な業務についている人、仕事をしている人にインタビューを行った。

今回は言語聴覚士で「横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会」会長である松元瑞枝さんに話を伺った。

今回インタビューした人

松元 瑞枝(まつもと みずえ)さん

松元 瑞枝(まつもと みずえ)さん

言語聴覚士。介護支援専門員。医学博士。「横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会」会長。
高知県出身。早稲田大学第一文学部卒業後、大阪教育大学特殊教育(現特別支援教育)特別専攻科へ入学し言語障害教育を専攻。1983年より大阪医科大学リハビリテーションセンターの言語室に勤務。その後も夫の転勤、出産・育児などの事情で何度か転職を経た後、1992年に横浜旭中央総合病院の言語室に2008年まで勤務。同年4月より専門学校の首都医校でST養成に従事し、定年退職後、2020年より横浜市鴨志田地域ケアプラザにケアマネジャーとして勤務。
その傍ら、表千家茶道教授の顔も持つ。2012年以来、「宗瑞」の名で「桜台教室」も開いている。「穏やかな時間を過ごすことで癒されますよ。参加者には看護師や言語聴覚士もいます。医療職にも癒しが必要なんですよね」と松元さん。

定年後も地域ケアプラザでケアマネジャーをしながら

地域包括支援センターの機能も持つ横浜市鴨志田地域ケアプラザの、居宅介護支援部門でケアマネジャーとして勤務する松元瑞枝さん。彼女には、もう一つの顔がある。現職の前には専門学校の首都医校で言語聴覚士養成に専任教員として従事。定年退職後、デイケア勤務を経て2020年より現職に。そして、「横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会」の会長を長年務める。神奈川県言語聴覚士会の「失語症者向け意思疎通支援ワーキンググループ」(以下、WG)で派遣コーディネーターも務め、WG初年度には代表として県から委託された失語症者向け意思疎通支援事業の立ち上げに携わった。

失語症というテーマに、臨床に加えて当事者支援、それを支える言語聴覚士や支援者の養成といった面から携わってきた。「大学時代に障害児支援のサークルに入って施設へボランティアへ行っていた際に、会話や話を理解してもらうのがとても難しい子がいて。こうした人へのサポートに仕事で取り組みたいと思いました」。そして大学卒業後、大阪教育大学の特殊教育(当時)特別専攻科に入って言語障害教育を学んだ。1981、82年のこと※1。

卒業して82年に大学病院のリハビリテーションセンターの言語室に就職。その後、結婚、夫の転勤、出産・育児の都合などによる数度の転職を経て、横浜旭中央総合病院では約16年、働き続けた。最初の就職以降、「言語室の立ち上げに携わることも多かったです」と松元さん。そして、STが国家資格として制度化(97年)されたのを受けて、第1回試験(99年)を受験し、合格。
横浜旭中央総合病院では「言語室に松元あり」と言われていたそうで、臨床とともに、他部署との連携や摂食嚥下リハビリへの対応強化にも携わった。女性の社会進出の進展、STの職域の広がりと軌を一にした歩みともいえる。

会話を楽しめる場を当事者と立ち上げ

脳血管疾患や脳外傷などが原因で大脳の言語中枢が損傷されて「話す」「聞く」「読む」「書く」「計算する」などの能力に障害を来す失語症では、生活上、買い物時の精算に困る、電話が使いにくい、道が聞けない、話の輪に入りづらいなど様々な支障が生じる。見た目では失語症とも分かりづらい。失語症の患者は全国で推計50万人ともいわれる。また、現職で仕事をしていた人で発症した人のうち、復職できたケースは1割程度ともいわれる※2。

「病院では、私たちはゆっくり話したり絵カードを使うなどしてじっくり会話をしますが、退院すると、そうした配慮も受けられにくいまま『大変だけど頑張って』になってしまいがちです。失語症の人の人生は退院してからのほうがずっと長く続きます。コミュニケーションは相互作用なので、支援者も頑張るべきではないか、参加しやすい環境を作るべきだと思いました」

そこで、そうした配慮があって当事者が会話を楽しめる場を立ち上げた。1997年のこと。一緒に立ち上げた人の一人、発症前は会社で重役を務めていたAさんは、介護保険制度開始後、「デイサービスに行けるようになってよかったですね」と松元さんが言うと、「はあ」とため息。失語症への配慮はなく、「静かな人」「手がかからない人」と見られてしまっていた。松元さんは気持ちの表出の場が必要だと思った。症状が重い人こそ楽しめる場を、とも。

別のBさんは当時50代後半の男性。音楽好きだが、失語症に加えて右片麻痺が残り、大好きなウクレレが演奏できない。そこで「ハーモニカをやってみませんか?」。吹いてもらうと、なかなかうまい。当事者や支援者が集まる場で吹いたら「すばらしい」の声をもらい、喜んだという。

失語症の人との会話時は、例えば、その人にとってわかりやすい言葉を選んだり、発話を文節に区切ってゆっくり話したり、視覚的に意味が捉えられやすいようひらがなより漢字で示したり、身振りや描画など非言語的手段を自分も活用したり、相手にも活用を促したり、「はい」「いいえ」の二択で答えられる聞き方にしたり、相手が言葉に詰まったときは言いたいことを多角的に類推できたり、相手の理解や話の内容を確認できたり、相手の話したい話題を見つけられたり。そうしたスキルが必要になる。

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《横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会が作成した、失語症の人用の会話支援依頼のための「支援お願いカード」》

「失語症会話パートナー」とSTの養成

「例えば、同じ言葉を100回言ってもらったからといって、その言葉が自然に出てくるようになるとは限りません。その人が興味のあること、好きなもの、自分や生活に関わるものを、描画などの方法も使って表現し、失語症の人が伝えやすくすることが大事。また、言いたくなる環境を作ることや、生活期だと特に、楽しい環境とコミュニケーション成功体験が大切だと思っています」。そして成功体験が大切なのは、サポートする側の人にとっても同じだと話す。

環境作りのためには、STだけでなく、失語症の人の状態などの知識と対応のノウハウを持ち、サポートできる人、会話相手を増やすことも大切だと松元さんは考えた。そこで、思いを同じくするST6人で、2001年に横浜失語症会話パートナーの会(15年、現名称に改称)を創立。以来、一時期を除いて会長を務める。「失語症会話パートナー」は、失語症について理解し、会話の支援などができるボランティア。会話の際には先述のようなスキルが必要だ。養成プログラムなどは「NPO法人言語障害者の社会参加を支援するパートナーの会『和音』」を参考にしたという(同会では00年に開始)。カナダのAura Kagan氏によって1998年に発表された、失語症の人のための会話パートナーの養成に関する論文に着目したST数人が視察に行き「そのSTの方々が、日本でもぜひ作ろうと始められたんです」と松元さん。

現在は県の事業として失語症者向け意思疎通支援者養成のための講習会(神奈川県言語聴覚士会が受託)ができた※3ので、棲み分けで、同会は広く啓蒙的な内容で実施している。

松元さんは、横浜旭総合病院での勤務の後9年間、専門学校、首都医校の言語聴覚学科でST養成にも携わった。「医療機関などでの臨床はもちろん、生活期を念頭に入れた支援のできるSTを養成したい、と取り組みました」。こうした自身の仕事と並行して失語症支援に取り組んできたわけだが、「生活期の失語症の人と関わることで、生活期の様子や困りごとを知ることができたのは大きいですし、文献を読むなどで世界の言語聴覚療法の情勢を他の職場のSTと共有できて、そうしたことを職場で活かせたのは大きかったです」と松元さん。

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《横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会での「失語症会話パートナー」講習の様子。「失語症の人役とパートナー役を設定したロールプレイを重視しました。実践を想定して知識とノウハウを身に付け、失語症友の会などに依頼して現地実習も行います」(左から2人目は松元さん)》

県の失語症者向け意思疎通支援事業立ち上げに従事

2018年には失語症者向け意思疎通支援事業※3を神奈川県言語聴覚士会が神奈川県から受託し、失語症者向け意思疎通支援者養成を開始(派遣は19年度から)。松元さんはそのワーキンググループ代表として事業の立ち上げに携わり、現在もWGの派遣コーディネーターを務める。

同制度は、失語症の人の意思疎通をサポートできる支援者を養成し、生活での必要な場面で派遣するというもの。派遣する場面は、例えば失語症者が集うサロンでの会話イベント、通院、交通機関利用時、役所の手続き、買い物など。支援者になるのは40時間の養成講習会を修了して県に登録された者。受講者は広報で公募された意欲のある一般の人で、講習の中では失語症の当事者も講師役となりコミュニケーション方法などを学ぶ。派遣は有償で、22年度の派遣件数は118件。派遣を受けた当事者からは「今回同行してもらえて自信がついた」、家族からも「仕事のある私には気持ちの面でも助かる」などの声もあがるが、「もっと潜在的なニーズはあると思いますし、認知度をもっと上げる必要があります」と松元さんは話す。神奈川県言語聴覚士会の同WGでは、この制度の認知度向上も兼ね、22年10月以降、意思疎通支援を体験できたり、相談できるフリースペースの定期的な設置を開始している。

松元さん自身は失語症支援に取り組むことについて次のように話す。「社会的には、失語症の人がため息をつくような状況の原因を考えて、ご本人のつらさを解決できるシステムづくりにつながったときにやりがいを感じますね」

エンパワーメントの期待と今後の目標

「私は失語症です」。表紙にはそう大きく書かれている。失語症の人が自分の失語症について伝え、必要な会話支援を相手に依頼するのに使えるよう、横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会が制作した三つ折りのカード。失語症当事者や言語聴覚士を対象に行ったアンケートを踏まえて内容を決めた。2009年のこと。

「失語症の人には、『そうなったのは自分が悪い』『今生きているのは周囲の人のおかげ』と遠慮してしまう方が多いと感じています。支援をまわりにしてもらうよう自ら声を上げやすくできれば、とエンパワーメントのために作りました」と松元さん。「例えば、駅員にこれを見せて長野県の松本市まで一人で行けたという方もいますし、一方で、自分が失語症だとオープンにしたくないという方もいます。使うかどうかはその方で判断すればよいと思います」。松元さんは、自ら声を上げやすくなってきた認知症と比べても、失語症はその点がまだ弱いと感じている。

「ただ、STの資格を得たうえで失語症の夫について漫画で伝える方や、当事者のSTの方も出てきています。LINEでの写真を使った意思疎通などツールも増えてきました。時代が変わるかもしれない、とも感じます」。

今は、横浜市鴨志田地域ケアプラザでケアマネジャーとして働くなかで、もっと地元の失語症の人に出会え、力になれればとの思いもある。「生活期に参加できる場があると、それをすごく楽しみにしている方も多いです。コミュニケーションのバリアフリー、失語症のことをより広く知ってもらえるよう今後も取り組んでいきますし、WGに参加してもらえるSTも増やし、後進育成にも貢献していければ」と松元さんは話した。

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《横浜失語症者のコミュニケーションを支援する会が作成した失語症に関するリーフフレット》
※後出の支援お願いカード(後出)ともに、同会のサイト(https://shitsugosho.jimdofree.com/)からダウンロードして印刷できる。

[欄外注]
※1:1971年には旧国立聴力言語障害センターに日本最初の言語聴覚士の養成所が開設されているが、当時はまだ正式な資格にはなっていなかった(言語聴覚士の国家資格としての法制化は97年)。
※2:例えば、失語症全国実態調査委員会(日本失語症学会)の失語症全国実態調査(数年間隔で実施のうえ2013年発表)では、医療機関利用後の職場復帰率は5.5%~16.2%(現職復帰率は 3.8~8.5%)となっている。
※3:2017年、厚生労働省が18年度より各自治体で開始できるよう通達。こうした制度化の背景として、NPO法人日本失語症協議会の当事者とその家族へのアンケート調査(2013年)では、発症前と比べて生活しづらいと回答した人が約9割、1人では外出困難が約6割。医療機関でも、医師や薬剤師からの説明に対してわからないときに質問するが約4割、とった結果が出ていた。

北原 南海(きたはら みなみ)
大学卒業後、出版社勤務を経てフリーの編集者兼ライターに。編集者としては教材や単行本など各種出版物の制作、ライターとしては介護施設・サービス、認知症や食事・栄養、リハビリに関する取り組み、外国人スタッフの採用・定着・定住に関することなどについて、新聞や雑誌などで取材・執筆に従事している。
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