パラリンピックは社会復帰のリハビリスポーツから始まった
公開日:2016.03.28 更新日:2023.03.14
リハビリのスポーツとして誕生
パラリンピックはリハビリテーションから誕生したスポーツイベントです。パラリンピックの発祥はロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院の医師、ルードウィッヒ・グットマン卿が1948年に開催した院内アーチェリー大会だといわれています。この大会が毎年開催され、1952年にはオランダが参加。この年から「国際ストーク・マンデビル大会」となり、1960年のローマオリンピックに合わせて開催されたローマ大会から「パラリンピック」と呼ばれるようになりました。この第1回ローマパラリンピックには23ヵ国・400名が参加しました。
負傷兵のリハビリと社会復帰に取り組む
パラリンピック発祥の地であるストーク・マンデビル病院は第二次世界大戦中の1944年に開設されました。当時、英国首相だったチャーチルらはドイツとの戦争が激しくなり、戦闘で負傷して脊髄損傷になる兵士が急増すると考えました。ストーク・マンデビル病院はその負傷兵を受け入れ、治療と社会復帰に取り組むめの施設として開設されたのです。
ちなみに現代でも戦争が受傷理由だというパラリンピック選手は大勢います。日本は疾病や交通事故、先天性の障害を持つ選手がほとんどですが、世界に目を向けると戦禍と深い関係にある国際スポーツ大会であるといえるでしょう。
リハビリ医療とスポーツで社会復帰へ
パラリンピックの競技性は高まっている。チームのコーチやトレーナーとして活躍するセラピストも多い。
日本は前回の東京オリンピック(1964年)に合わせて、第2回東京パラリンピックを開催しています。このときは社会福祉法人 太陽の家(大分県)の創設者、中村裕博士らが準備を進めました。
中村氏はリハビリテーション医療の研究でストーク・マンデビル病院に留学したときにグットマン卿の指導を受けました。そしてスポーツを医療の中に取り入れて、残存機能の回復と強化を訓練治療していることに強い衝撃を受けたといいます。 ストーク・マンデビル病院では多くの脊髄損傷患者が半年ほどのリハビリテーションを受けたのち、社会復帰していたからです。
当時の日本では安静にしていることが治療だと考えられており、患者にスポーツをさせることには反対の声が多かったといいます。可能な患者には早期にリハビリを開始する現代とはまったく逆の考えだったのです。そして帰国した中村氏は1961年に第1回大分県身体障害者体育大会を開催するなど、東京パラリンピックの開催を関係省庁や機関へ提案しました。
スポーツのリハビリ効果を研究
世界のトップ選手たちが出場している大分国際車いすマラソンも中村氏たちがつくり上げた世界最大の車椅子マラソン大会です。有名大会の別府毎日マラソンに施設利用者の車いす参加を要請したものの、それを断られたことがきっかけでした。また中村氏らはレース中の選手の心肺機能を測定し、「車いすマラソン競技は脊髄損傷者にとって医学的に優れたリハビリテーション効果がある」という研究報告もしています。(*)
身体機能の喪失から精神的に回復する
2015年10月に開催された三菱電機 2015 IWBF アジアオセアニアチャンピオンシップ千葉には大勢の観客が詰めかけた。各国代表チームが激しく試合を繰り広げ、日本チーム男子はリオパラリンピックの出場権を獲得した。
障害者スポーツは運動機能の回復だけでなく、患者の社会復帰や社会参加につながっています。事故や疾病で中途障害を持った患者は、身体機能の喪失で生きる気力を低下させている場合があります。そうした患者がスポーツクラブと出会い、そこで先輩障害者から社会復帰の術を学んでいるというケースが多くあります。
義肢装具士の臼井二美男氏はスポーツ競技用義足の制作に取り組み、数多くのパラリンピック選手を育ててきました。そして自ら陸上競技クラブを主宰し、患者が社会復帰する機会をつくってきました。事故などで身体の一部を切断した患者は、その喪失感から義肢や自らの身体を隠したがるケースが多くあります。
ところが臼井氏に誘われてクラブの練習会に参加したことで、回復のきっかけを掴むことができたと選手たちはいいます。むき出しの義足で颯爽と駆け抜ける選手たちの姿を目にした患者は「隠さなくてもいいのだ」と障害を受容し、回復に向けて歩み始めます。
障害者の就労や恋愛も先輩選手から学ぶ
患者たちはスポーツを通じて出会った仲間から就労や生活に必要なサービス、支援、機器などを教えてもらい、社会復帰に取り組んでいきます。選手たちも同じように社会復帰した経験があるので、新人障害者の面倒をよくみています。このように社会生活の細かな部分までマッチした援助は、病院や福祉の窓口では得にくいものです。
とくに全国大会やパラリンピックで活躍しているようなトップ選手であれば、生活面でも実力のある方が大勢います。パラリンピックの出場権を獲得するためには、国際大会で優秀な成績を出さなければなりません。しかしパラリンピックの競技はどれもマイナー種目なので、日本代表選手であっても、国際大会や合宿の遠征費用は自費ということがほとんどです。すると競技を続けるために稼がなければならないため、そうした就労環境をつくりだす実力をも兼ね備えている選手が大勢います。新人障害者はこうした「生活力のある選手」たちの援助を受けながら、社会復帰していくのです。
(*)出典 社会福祉法人 太陽の家ホームページ http://www.taiyonoie.or.jp/
安藤啓一(あんどう けいいち)
福祉ジャーナリスト。大学在学中からフリー記者として活動を始める。1996年アトランタパラリンピックをきっかけに障害者スポーツの取材をはじめる。夏冬パラリンピックや国内大会を多数取材。パラリンピック関係者に読み継がれている障害者スポーツマガジン「アクティブジャパン」「パラリンピックマガジン」記者などを経験。日本障がい者スポーツ協会発行誌『No Limit』などの媒体にも寄稿している。取材活動のほかチェアスキー教室講師としてもスポーツに取り組んできた。共著に「みんなで楽しむ!障害者スポーツ」(学習研究社)がある。
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